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ラオスの安井清子さんから、元難民のモン族の人びとが暮らすシヴィライ村からの便りが届きました。
by laospantao


【New】ラオスの安井清子さんからメッセージが届きました

2020年8月19日 

 今、世界中でも、日本でも、コロナの大変な状況が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか? 私自身はラオスに残り、ラオスでロックダウンを迎え、まだしばらくは日本に戻ることができません。

 ラオスでも2月頃から、コロナの噂が飛び交い始めました。中国とも国境を接し、中国の進出がすごいので、武漢騒ぎの頃は、中国市場には近寄るな・・・とか、あれこれの噂も飛び交いました。ラオスの医療設備が脆弱なことは、ラオスの人自身がよく知っていることなので、「とにかく感染しないように、人ごみにはでない」などと自己防衛するしかありません。熱が出たら家族から離れて自主隔離をする人もいました。政府からのお達しで、3月末には学校が全て休校となり、国境の閉鎖、4月から6月までは全国でロックダウンとなりました。普段はのんびりとした国民性で、特に4月のラオス正月は、いつもだったら飲めや歌えや!と騒ぐのが好きなラオスの人たちですけど、今回ばかりは、ひっそりとしていたのには、驚きました。ロックダウン時は、村の入り口に警備のゲートができ、他の村の人たちを自由に入れないなどの措置が厳しくとられました。

 ラオスは、とにかく人の行き来を止めて、感染者を出さない!ということに徹底したようです。結局、22名の感染者(ほとんどが外国帰り)にとどまっています。今回、感染者が出たのは、ビエンチャンとルアンパバンという2都市だけですが、山奥の村に至るまで全てロックダウンが厳しく施行されたのは、さすが、社会主義というしかありません。 現在ロックダウンは解除、学校も始まり、街も一見、普通に見えますが、国境はまだ閉じており、ほとんど鎖国状態。内陸国のラオスにとっては、かなりのダメージになっていると思います。町中では閉店した店も多く、閑散としています。ディスコなどの営業はまだ許可されていません。解雇された人も多いはずです。それでも、多くの人たちが何とか暮らしているのは、もともとが、自給自足に近い暮らしをしている人が多いからでしょう。特に田舎の人は、あまり打撃を受けることもなく、畑仕事へ行き、魚を取って普段通りの生活をしていました。

 7月に入ってから、やっとシヴィライ村を訪ねることができました。シヴィライ村のみんなも元気には過ごしていますが、なんといっても、ロックダウン以降、刺繍のクラフトがまるで動かなくなってしまい、在庫もまるで動かないので、今は、刺繍をお休みしてもらっています。村に行っても、木陰や家の軒下で、女の人たちが刺繍をしている姿を見かけないのは、なんだか不思議な感じがします。

 最初の頃は、こんな状況はそうは長く続かないだろう・・・と思っていたのが、予想より長期間になりそうで、このまま続けば、シヴィライ村の刺繍の伝統は途切れてしまうかもしれない・・・・と危機感を覚えるようになりました。

 そこで、なんとか動かそう!と、このたび、「山のふもとの刺しゅう屋さん」にも相談して、少し送料は嵩んでしまいますが、唯一動いている国際宅急便を使って、刺繍のクラフトを日本に送ることにしたのです。私自身が、まだ日本へ帰ることができなくても、シヴィライ村の刺繍だけでも日本へ届くということは、それだけでも、希望に向けて動き出している気がします。動きが出て行けば、また女性たちも新しく刺繍を作り始めることができるでしょう。

 状況が改善されて、再び、世界のどこへでも自由に行き来できるようになってほしいですが、人間が行けなくても、モノは届けられる・・・この現状の中でできることをやっていこうと、今回初めて国際宅急便を使って、「山のふもとの刺繍屋さん」に新たな刺繍のクラフトをお送りしました。皆様のお手元まで届けば、嬉しいです。

 停滞からちょっとだけ前進した気分。
 ラオスでも日本でも、一緒に頑張りましょう。
 どうぞ、皆様も、お身体に気をつけてお過ごし下さい。

# by laospantao | 2020-08-19 11:45

ヤーコンのこと

 ヤーコンは、昨年9月に障害者のための職業訓練校に入って、携帯電話やテレビなど電気機器の修理を学んだ。学校は完全寄宿制で携帯電話も禁止。ヤーコンの母親から、「頑張って勉強しているみたいよ」という話を聞いていたが、会うこともなかった。

 そしてこの9月、1年のコースを終え、卒業を控えたヤーコンから電話が入った。これまで、引っ込み思案の彼が直接私に電話をしてきたのは初めてだ。学校は授業料も生活費もとらず、これまで無料で勉強してきたのだが、卒業試験のために、あれこれ修理するものを購入しなくてはいけないのだそうだ。そのお金を助けてもらえないだろうか? という電話だった。ヤーコンにはずっと日本の方からの支援金を預かっている。シヴィライ村の小学校建設を中心に進めて下さった、茨城県の妙行寺の大宮さんが、その後もシヴィライ村の人たちのことを気遣って下さっている。そのお金を持って、ビエンチャン郊外にある職業訓練校に、ヤーコンを訪ねた。

 学校の門番さんに、ヤーコンに会いに来た旨を伝えると、呼びに行ってくれた。しばらくすると、なんと、車椅子に乗ったヤーコンがなんとも鮮やかなスピードで、学校の奥からスイ~スイ~と風を切って現れた。これまで、彼は杖をついてヨッコラヨッコラ歩いていたのだ。さっそうと現れたヤーコンは、まるで一回り大きく生まれ変わったように見えた。

「ありがとう。わざわざ本当にありがとう。大宮さん?もちろん覚えているよ。ずっとお世話になっていて…」
 これまでは、こちらが何か言っても、ウンともスンとも答えなかったほど寡黙で暗かった少年は、にこやかにペラペラとラオス語で話しはじめるではないか!表情が明るい。

「試験が終わったらね、ぼく、ビエンチャンで職を探したいんだよ。先輩たちが紹介してくれたら働いてみようと思っている。ビエンチャンで暮らして働きたい」
と、ヤーコンは言う。親元を離れて、ビエンチャンで一人立ちしたいのだというではないか。自分の将来に対しての希望と、チャレンジしようという自信が、ヤーコンからあふれていた。

 職業訓練校で暮らした1年。彼は、みんなどこかに障害を負った仲間たちに囲まれて、そしてそのみんなが障害を越えて学んで一人立ちしていこうとする姿を見て、その中で自分も技術を学びながら、生きる勇気と将来への希望を抱いたのだろう。
 小学生の頃、木から落ちて歩けなくなり、一時は、「ぼくを道の真ん中に置いておいてよ、お母さん。車にひかれて死んでしまったら、みんな楽になるよ」と母親に言ったというヤーコン。無口な暗い少年になってしまったが、勉強だけは続けた。その彼が、顔を上げ晴れ晴れと前をしっかりと見ている。
 よかった。ヤーコンはもう一人で歩きはじめたんだ。

 数週間後、卒業証書を受け取り、シヴィライ村に戻ったヤーコンに会った。さっそく、村の人たちに、電話やテレビの修理を頼まれているという。片脚を引きずりながら、修理する電気機器を持って現れた。
「ただで、直してあげちゃダメよ。ちゃんとお金とりなさいよ」と言うと、
「大丈夫、もらってるよ」
ヤーコンははにかんだ笑顔をほころばせた。

▼ラオス・山のふもとの刺しゅう屋さん(シヴィライ村の刺しゅう)
http://pajhnub.ocnk.net/

▽ヤーコンの以前の記事
http://laoshmong.exblog.jp/22533567/


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# by laospantao | 2016-04-08 00:33

残された家族 続き

モンの村では、しばしばこちらの常識ではわからぬことが起きるが、その後、残された家族を支えていたロー・ワンは、村のある男性の3番目の妻になった。この男性は別に権力や財力があるわけでも、女性をくどくのが上手なようにも見えないのだが……。どうも未亡人の世話焼きなのかもしれない……一番目の妻にたくさんの子どもたち、2番目の妻の連れ子と子どものいる、その男の大家族に、ロー・ワンは3番目の妻として嫁いで行ったのだ。まだ30代の彼女が、この先何十年もの人生を、未亡人として生きていくより、誰かの妻となることを選んだことは、モンの女性としては当然の選択ともいえる。
こうして、ロー・ワンは亡くなった夫・イェンポー・ションの家を離れた。モンの女性はたとえ、夫が亡くなっていても、再婚する時、息子を一緒に連れていくことはできない。ロー・ワンは5人の子どものうち、下の娘二人とまだ小さい末の息子を連れていったが、息子は大きくなったら、元の夫の親族に返すことになっているという。嫁ぎ先は、徒歩5分と離れていない、同じ村人の家なのだが……とにかく、残された家族を支えていた働き手のかあちゃんはいなくなってしまったのだ。

 さて、残された家族は、目のあまり見えない1番目の妻、マイ・リーと、その子どもたち2人(小さな時から養子として育てられたヤァートゥとマイチャ)と、ロー・ワンの息子1人と、娘1人だ。マイ・リーは年老いている上、目があまり見えないので、ほとんどまともに働けない。食事の支度すらままならない老母を抱えて、中学生、小学生の子どもたちが家を守ることになった。
 そんな中、今年4月、マイチャが、中学3年の学年末試験が始まろうという時、学校を辞めたときいた。
「仕方ないよ、父親も死んで、母親は目も見えず、働き手がいないんだから」
と村人は口々に言った。
 数か月後、10月に入ったある日、私はシヴィライ村を訪ねた。シヴィライ村小学校の校舎整備などに支援をいただいている石川県の清水基金の木崎さんも一緒だ。村長は、
「昨年、村の子で貧困のために、4人の子どもが学校を辞めた。その一人がマイチャだよ。マイチャの母違いの妹にあたる(ロー・ワンの長女)のシュアも、親戚の伯父さんたちが、貧乏なんだから学校なんか辞めて畑仕事しろって、辞めさせようとしたんだけど、義姉のミー(マイ・リーの長女:シヴィライ村の女性の中で、初めて高校、看護学校へと進み、看護婦になった。いわば職業婦人の草分け)が、どうしても勉強を続けろってお金も支援して、学校に残ることになったんだよ」と言う。
 ミーは、イェンポーの長女で、村で初めて高校へと進んだ女の子だ。今は、3人の子の母で、隣村の診療所の看護婦としても働いている。イェンポーは私に言ったものだった。
「モンの人たちは、女の子に教育なんていらないって言う人が多いけれど、ぼくは、娘に教育を受けて、きよこみたいに一人でも生きていける人になってほしいんだよ」
 私はイェンポーに頼まれて、遠い南のサバナケート県の看護婦学校で学んでいたミーに、米がずっしり入った袋を届けるため、一晩バスに揺られて行ったこともあった。そうして看護婦になったミーが、今度は、母親違いとはいえ、妹に学校を続けるよう支援してあげたというのは、嬉しい話だった。
 村長は、
「あそこの子どもたちには脱帽するよ。イェンポーが植林しておいたわずかなゴム林がようやく育っているのだが、中学生の子どもたちは、早朝に起きて、ゴムを収穫し、他の人のゴムの収穫も請け負ってやり、その作業を終えてから学校に行くんだよ。だから、多少なりとも収入となって、あの家の家計を支えているわけだ。お母さんは目も見えなくて何もできないからね」
と言った。
 そんな話を聞いた後、家を訪ねた。大声で、「ニョージョン」と言うと、視点の定まらない老母、マイ・リーが「おや、来たのかい?」と出てきた。「マイチャは?」と聞くと、暗い家の中を指して、「中にいるよ」と言う。母は、
「マイチャがいるから、私はこうして生きていられるんだよ。マイチャがご飯を作ってくれなかったら、まったくご飯も食べられない。目が見えなくなって、火は怖くて使えないからね、何もできないよ。まったく情けないことだ」と言う。
 マイチャは、暗い家の中にいた。他のきょうだいたちは、学校から帰って来ていない。学校を辞めてしまった彼女が一人で家にいるのだった。
「畑仕事行かないの?」ときくと、
「だって、一人で怖いもの。週末にきょうだいたちと行くのよ」と言う。
 マイチャは若い女の子だ。一人で山の畑に行くのはやはり怖くて、平日は家にいるのだそうだ。なんだ、それだったら、学校に戻った方がいいんじゃないの……と私は思った。
「学校に戻りたくないの?」
 すると、家の隅に立っていたマイチャは、キッと唇を噛みしめたような顔をして、
「私、学校へ行きたい」
と言った。そして、口早に、「戻れるのなら、戻りたい。また勉強がしたい」
と言う。マイチャは、4月、ちょうど、農作業のピークと学年末試験が重なる時に、やむなく畑に行くことを選んだのだろう。そうして一度は学校を行くことをあきらめたものの、でも、まだ中3の女の子だ。友達やきょうだいが学校へ行ってしまった後のひっそりとした家で、中途半端な気持ちのまま日々を過ごしているに違いない。
「本当にまた勉強したいの?」と聞くと、マイチャは、「うん」とうなづいた。そんなやりとりに耳をそばだてていた母のマイ・リーがマイチャに強い口調で話しかけた。
「あんた、本当にまた学校に戻りたいんだったら、もう二度と辞めちゃいけないよ。一生懸命勉強しなくちゃいけないよ。学校へ行ったら、昼間の畑仕事はできないんだから、その分、週末にきょうだいたちと畑仕事をして、それで、学校は行かなくちゃいけないよ。貧乏でも、最後まで学校をなまけちゃいけないよ。わかっているね。それでも学校へ行きたいかい?」
 もうあまり見えない目で、娘に話しかける老母。マイリーは硬い表情でうなづいた。その後、母は私に向かって言った。
「お願い。この子のことを支援してやっちゃくれないかしら? 助けてやってちょうだい」
 マイチャ、そして娘の思いをかなえてあげたい母の思い・・・
やっぱり勉強したい! 学校へ行きたい・・・ 
 そんな思いに、胸が熱くなる思いがした。
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 学校にかかる費用・・・とりあえずは、制服代と学校の登録料・・・を、清水基金が出して下さることになった。学校への復学は、村長に交渉を頼んだ。
 その数日後、マイチャが、これまで勉強してきた友達たちと同学年、中4に編入されることが決まった・・・と電話できいた。
 よかった。
はっきり言えば、彼女がここで勉強を続けて、中学、そして高校を卒業したところで、まだまだラオスの現状では、将来が開けるわけではない。大学を卒業しても、職を得られずに畑仕事をしている若者もいる現実である。でも、ここで辞めたら、いろんな可能性をすべて失ってしまうということも確かなのだ。勉強したい!という気持ちを持つ子どもには、勉強してほしい。そして、自分の将来への夢を思い描いてほしい。
# by laospantao | 2015-10-24 01:28

残された家族 

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 昨年、大黒柱のお父さんをなくした一家。
 イェンポー・ションは、彼らの亡くなったお父さんの名前だ。
 イェンポーには3人の妻がいた。左端に座るマイリー・リーは1番目の妻。そして、2番目の妻は、出産の時に出血多量でお腹の赤ちゃんとともに亡くなった。その後に娶ったのが、3番目の妻、右から2番目のロー・ワンだ。1番目の妻には2人の娘がいるが(二人ともすでに結婚している)、男の子ができなかったために、次々と妻をもらったのだろう。モンの場合、家を継ぐ男の子がいないと、そうする人が現在でも多い。モンは一夫多妻が許されるので、男からすると、間違ったことではないのだ。

 イェンポーより年上の妻、マイリーは、夫が他の女を妻にした時、私に、
「私もあんたみたいに、職業を持って一人で生きていく甲斐性があるんだったら、家を出て一人で生きていくのに。そうできないから、他の女が、夫の妻になって家に入ってきても、我慢するしかないのよ。一人で生きてなんかいけないからね」
と言って泣いたことがある。モンの女性が、村の暮らしの中で、一人で生きて行くというのは、本当に難しいことなのだ。マイリーの長女、ミーは看護士になり、村で最初の職業婦人になったのは、そんな母の姿を見ていたせいもあるのだろうか?
 
 モンの場合、複数の妻でも、同じ家に住むのだから、辛さはなおさらのことだろう。マイリーは、寂しさからか、その後二人の子どもを養子にもらって育てている。ヤァトゥー(右端)と、マイチャ(後列右から4番目)だ。二人ともモン族ではないが、赤ん坊の時からモンの子として育てられた。
 3番目の妻、ロー・ワンには、5人の子ができた。イェンポーは望みの通り、息子にも恵まれたが、子どもたちが一人立ちする前に、逝ってしまった。

 残された家族……子どもたちはまだみんな学校に行っている。上の妻マイリーは、目があまり見えない。下の妻ロー・ワンは、下の子をマイリーに託して、一人で畑仕事をしている。山の斜面で陸稲を植え、家族の食べる米は作っているものの、子どもたちにかかる学費、制服代、生活費……あれこれを、どう捻出したらいいか、途方に暮れている様子であった。まだ嫁に来たての頃は、何も知らないわがまま言い放題の女の子みたいだった彼女が、今、一家を代わりに背負っている。
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 妻同士の確執もあるだろうが、今は二人で協力しないことには、家族を支えられない。村の女性たちは、
「ロー・ワンもえらいわよ。なんだかんだ言っても、今となっては、目のみえない1番目の妻と子どもたちのことも、家族のみんなの生活を背負っているんだから」と言う。

 先日、家をのぞいたら、子どもたちが次々と学校から帰ってきた。
 みんなそろって記念撮影。

 お母さんだけでなく、子どもたちも、みんな一生懸命、刺しゅうを作っている。制服代、学用品、試験にかかるお金……米を作ることで精一杯のお母さんには、とてもねだれない。だから、子どもたちそれぞれが、自分でお金を稼がなくちゃいけないのだ。
 刺しゅうは、こんな家族のことも支えている。

▼ラオス・山のふもとの刺しゅう屋さん(シヴィライ村の刺しゅう)
http://pajhnub.ocnk.net/
# by laospantao | 2015-01-15 01:00

マイイェンに赤ちゃんが生まれました

 以前も紹介したマイイェンは、今年5月6日に、男の子を出産しました。その後、3か月、図書館の仕事を休んでいましたが、9月のラオスの新学期から、子連れ出勤で仕事に復帰しています。
 今、5カ月になったプットくん。保健体育の先生であるお父さんはラオ。お母さんはモンのハーフです。お父さんはラオス語、お母さんのマイイェンはモン語で話しかけているとのこと。ラオ語とモン語のバイリンガルになるでしょう。色白で目がくりくりとした、なかなかのハンサムくん。休み時間になると、図書館に来る女の子たちが、すぐさま抱いて遊びに行くそうで、その間、お母さんも仕事ができるとのこと……。
「子どもたちの声をきいていると安心するみたいなのよ」と。きっと、大勢の子どもたちに見守られて育っていくのでしょう。

 身内を次々となくし、血をわけた肉親はお姉さん一人だけという、さびしい境遇のマイイェン。結婚して幸せになってよかったな…と思っていましたが、結婚した時以上に、プットくんを抱くマイイェンからは、幸福感とやさしさが滲み出ているように感じました。そしてその表情に、私は、亡くなったマイイェンのお母さんの顔を見るような気がしたのです。これまでにマイイェンがお母さん似だと思ったことがなかったのですが、息子を抱くマイイェンの顔に、亡くなったお母さんの表情が重なって見えて、あぁ、マイイェンはお母さんになって、お母さんに近づいていくんだ……となんだかしみじみしてしまいました。

▼以前に紹介したマイイェンの記事
「マイイェンの結婚」

▼ラオス・山のふもとの刺しゅう屋さん(シヴィライ村の刺しゅう)
http://pajhnub.ocnk.net/
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# by laospantao | 2014-11-15 00:19